原発の是非とか、

原発のことも書いておこう。 自分としては、どうしても肯定的な考え方ができない。

先に、敢えて肯定的な考えを述べておくと。

  • エネルギー資源を持たなかった国には夢のエネルギーであった
  • 廃炉やゴミ問題を考えなければ他の発電より低コスト
  • 火力と違って二酸化炭素出さないから環境保護に適している(火力も使わなければいいだろうとは思うが)

やめた方がいいと思う理由、反論を求む だいたいはシステムがうまく回ってなくて詰まってる。行政への不信。不公平感。とか。 反対する一番の理由は以下2点。

  1. ゴミ問題
  2. 不公平感

後述。

一連のサイクル

特に核廃棄物の処理まで含めたサイクルが回ってないのではないかということ、埋め立て場所が決まってない。

(そもそもそんなゴミの出る物を使うなと思っているわけだが)

原発は核廃棄物を生み出す。これは危険であり超長期にわたって確実に保管する必要がある。 自然界に流出しても困るが、犯罪にも使われる可能性がある。 それが今だに当初考えられてた地中に埋めるということまでやれずガラス固化してもらった物とその他ドラム缶に詰められた物など保管されているという話。

学者は処分方法について考えられるだけの理論を考えただろうけど、それはやっぱりやってみなくちゃわからないだろうからね。 現実に行うにしても

高速増殖炉の線は無くなったわけでしょ・・・ 再処理で減るという目論見は潰えたみたいだ 再処理しても低レベル廃棄物が増えるという話もあってワケワカメだが。

最終ゴミ貯蔵施設は地方に作られる 『六ヶ所村ラプソディー』は面白かった。
端的に言うと、 大きな力の働きで、地域で暮らす人々の人生と葛藤、感情のありようが左右された、その過去と現在の姿。 映画での生っぽい人間の姿の切り口が良いっすね。 再処理施設とその地域の人間が主題なんですね。

人工物に絶対はない。

極論すると地震大国日本に作るのはリスクが高いという言い方もできるし、地震が今はない地域でも10年後に突然地震が増えるかもしれない。 未来の不確かさってあるじゃん。
マーフィーの法則に「起きる可能性のあることは必ず起きる」というのがあったよね。
そういうことでしょ。 原発が作られてきたこの半世紀の間にユーラシアでもアメリカでも事故は起きていて、その危険度と影響度を考えると過小評価してはないけないんじゃないでしょうか? それでも改善して使い続けると、克服していくと言うのは、まぁそれはそれでいい。
 でも、それが日本でできてないじゃん?と言う風に見える。 地震大国だってことは自認してるし、津波も散々被害を受けてる、分かっているけど呑気にしていて現実になってしまったのは、 普通の人間っぽい性格が透けて見えるし、怠惰や非合理性を排除できないというか、むしろそれが普通で、それが人間の愛おしい所だなと思っているが。
東海村JCOの臨界事故、
もんじゅ
ドラム缶に詰められてどっかの施設に保管されている廃棄物、ガラス化して地中に埋められるのを待っているゴミ。
保管施設で作業員被曝
そういう体制を改めることもなく、それを制御するだろう政治にも参加せず、原発反対という意見を汲み取ろうともしないでバカにするような意見については論外だよね。 ただ怖がって反対するのは、危機回避的には正しいだろうと言う好意的見解を、私は示してしまう、それは贔屓かもね。 (賛成でも反対でも悪い意見というのはあるものだ。そうならないようにありたいと思っているけどさ、結局相対的なものだからさ) そういうわけで結局システムを改めることも出来ないんだから、犠牲が出ないようにやめるしかないじゃん。

最初に戻ると、人間が関わる以上また必ず事故は起きる。 被害の状況が惨憺たるものになりえるということは、今日本の課されているので言わずもがな。以前だったら海の向こうの話であって、殆どの人が関心を示してなかったと思う。建設地の地元民たちの闘争だけだった。

不公平感

自分が一番許せないことがあるとしたら公平性なのかもしれない。 以下2点。

  1. 中央と地方
  2. 現在と未来

「中央と地方」という考え方は嫌いだが、そこに不公平はあるんじゃないかという事。
地方に犠牲を強いてきた事を見逃せない、 なぜ東京で使う電力の発電を東京近郊ではなく、遠く離れた福島に作られたのか。そういう事も無視できない。 それは言うまでもなく危険度が高いからでしょう。

最初の原発原子力研究所のあった所の東海村、 2つ目に福井県、 3つ目に東北地方では最初の原発が福島にできた、東北の中では東京に近いというのはあるかもしれないが、

また、白河以北一山百文と言われてきた事も思い出した方がいい気はする。 住人は素直に受け入れられたのかとか、 戦後、もしくは戦前から、東北地方は割と工業発展とそれに伴う経済発展について割とスルーされてきていたかもしれない事も考慮、 *1 日本で発展が目覚しかったのは太平洋ベルト地帯でしょうから。それと明治を作った九州と。

昔読んだ河北新報の記事、 福島の原発を受け入れた地元住民のインタビュー記録、回顧、「やっとお国に貢献できる」と思ったというのは、御三家の膝元だったという誇りも感じる。 お国と一緒に発展させていこうという意気込みもあり。 しかし一緒に発展していくという事もなく中央が成長し、若者も中央に行った。

気になる事 その当時というのもやはり戦後であって広島長崎の記憶も新しいし、ビキニ環礁の記憶も新しい、核に対するアレルギーは相当激しかったハズで、であるからこそどの地域も積極的に受け入れたいとは思っていなかったのもあると思う。 その他の地域での住民と政府、または住民同士の軋轢ができていた事も無視できないし、*2 財政が潤って嬉しいという方がいる一方で、それとは別に生活が変化したという事で複雑な心境があるという話を無視しないでほしい。 リスクのために受け入れ先がなくて交付金などで補填したわけだから。

リスクを背負う事に反対していた人にとっては不条理なわけだよ。(例えば賛成派60%と反対派30%が存在したら、30%の人にとっては苦痛を強いるわけだから。60%の人間にその苦痛は理解できない的な)

原発を作らないという選択肢は、国にはなかったかもしれない。地方のどこかに作らせるためにはどうするかというそのための方法を一生懸命考えた。 それが国の発展に、つまり国の発展のために少数の犠牲は厭わない、技術的に、安全性に問題はないのだから、その上に交付金も出すのだから、
と言うわけではないかもしれないが、都合がいいのは事実でしょう。 というのは言い過ぎか。

事故対応のための人員を集めるのも、大変だし、 足元を見られる場合や人転がしの話とか出てくるわけだ、まずもって裕福で安定した仕事に就いてる人が行くわけないからね、エネルギーを使って出てきたツケを他人に払わせてるという事を考えてないのかとか。外国人労働者も従事しているの?
被爆時の保証、保険も結局被曝の影響かどうかわからないという理由で保証されないという記事もあったけどどうなんだろうね。
 なんというか、つまりその、事故が起きたとき自分が原発の事故現場で働くという想像はしないだろう、それを考えたらやっぱり嫌だと思って。 必ず誰かがやる事になる、そのときそれを選ばざるを得ない人がいる、そんな境遇などに想像が及べば、やっぱり賛成できないかな、というかね。 ナウシカの風の谷の社会みたいに、老人になったら腐海に潜って働いてくるという仕組みにでもする? まぁでも被曝量計測しながらやってるから安全確保してやるので大丈夫ですと、だから安全ですよ、統計によれば他の仕事の方が危険ですよ、それに比べたら安全です。とか言い出したら、それは詭弁だろうし
徴兵の問題と似てるのかな、

シン・ゴジラの主役の官僚マンが前線指揮で放射線受けてる覚悟あたりが、理想を描いてるよなぁ)

使ってる人たちだけでやるってんならいいってんでもなくて、 自分たちの中だけで作って事故っても自分たちの中だけで処理するから自分たちだけはそれを使う。そんな保証できるはずないし結局何かあったら外に漏れるんだからやめてくれということにはなる。

現在と未来では、
現在エネルギーを使う我々はいい、だが未来において子孫はゴミを押し付けられる形になる、 我々が望んだものではないと主張されるかもしれない、未だ埋め立てられるのを待ってるゴミとかを 下の世代が処理しなくちゃならんと言う事になってくる、そのエネルギーで育てられたんだからって言っちゃうの? 立木さんが歌ってるアニメのOPで「先祖のツケを背負い込んで〜」っていう歌詞が何気に言い得てたので、ただただ共感ばかりである

高度経済成長と公害

原発ができていくときと、公害問題の事と照らし合わせて考えるのも有意義だろうと思っている。 四日市ぜんそくとか、イタイイタイ病とか、光化学スモッグとか色々あったんですよね。 小学校で習ったけどみんな覚えてるといいけど。 科学と文明の発展と表裏一体で、必要だったとかは断じてありえませんよね。 だが起きてしまったからには教訓にしなければならないということではあるかもしれない。 まぁこれは辞める理由にはならないんだろうな、 発展に犠牲はつきものだという事になる、 宇宙開発で言えば、日本で有人飛行実験をやって死人が出たら、そこで終わるよね、日本ではそういう風に理解されるんだと誰かのインタビューであった。その通りだろうか。 だからやり続けるべきだと言う賛成者の意見も しかし、 原発の問題は、大勢を巻き込みすぎるからそういう点も全然違う気がする、これはまずコンセンサスをとるところからになるでしょ。

海外との関係

核廃棄物とか気持ちのいいものではない、 他国にあるものについて、内政干渉はできないわけだから、やめてとお願いすることにはなったりする。 核兵器かへの懸念もあるが、流出による環境汚染の不安を捲くこともあるでしょう。 こちらからもお願いする場合はあるでしょう。 チェルノブイリの時の影響範囲がヨーロッパに及んだり、 六ヶ所村の再処理工場の場合は六ヶ所村以外の周辺地域には何も恩恵がないみたいな関係を国レベルにするとですね、

この後

人口も減ってるということは技術者の確保と育成も難しくなる。 既存の原発施設の耐用年数とかの詳細はわからないですが、 10年20年以内に廃炉作業がぽろぽろ出てくると思うんですけどどうなんですかね? もんじゅは事故や解体を考えられてない変な作りだとかいろいろ出てますが、だいじょうぶなんですかね? そういう情報から不信はでてくる。 ただ、人間のやる事だから仕方ないと思っていて、そういうものだと思っているから、人間のダメな点を議論に含めて欲しいんだよね。

これからずっと世代継承してやっていけると思える根拠ってどこなんだろう? 「伊勢神宮遷宮」的な事をするならワンチャン

目先の利益

一年後に貰える1000円か今もらえる100円どちらを選ぶかという場合に今もらえる100円を選んでしまうというような人の性質。 賛成者の多くは、人間を無視しているような気がする、地方自治のありかたとか。 それとゴミや後始末の事についてどの程度重きを置いているのか、 もしもそれを軽視しているという事であれば目先の利益だけ追求しているという事になるが、それに自覚的なのかどうか。

多種多様な考え方があると思うので、それらが知りたいとは思う。

東京に作ればいいという人の大体は、意味を分かった上でそう言ってるんだろうなと思う。 中には本気で東京に作ればいいと思ってる人がいると思う。

交付金の適正額は?

まずちょっと想像を豊かに考えてみると、原子力関連施設のある各地域に多額の交付金を払ってもなお余りある利益を得られているわけだ・・・。 実は交付金の額が安いのでは?という疑問が出てもおかしくない。 安いか高いかわからないが、損得の計算をしないわけがないので、いくらまで出せるかを出す、いくらまで出せるか分かったら後はどこまで出せる額を減らせるかという事は当然考えるだろうと。
または、
お金の使い方それで良かったのか、 これからお金を使っていくときにこういう事を振り返り批評していく事で先々の使い方の良し悪しの判断材料にしていかねばと思ったりもするわけで。 地場産業の設備投資とかしただろうし箱物作っただろうけど、フルに活用できてるのか、でもトータルで考えるのは難しいよね。 一次産業都市のデザインとかおもしろそう。全土を全部工業化したらダメなはずなんで一次産業による都市化・・・・・

代替案

火力水力自然その他ミックスして使うことになると思う。 その時、社会や経済や生活レベルは発電可能な上限量に合わせるしかない、 エネルギーは無限ではないということは『上限』がある。ということについては反論の余地はない。 であれば、自分たちはどういう所を上限にするのかについて自覚的であるべきだろう。 上限を上げるために原発も追加するか否かまたは別な方法か、

*1:個人的には中央から距離をおいて正解なんじゃないかと思うが。

*2:六ヶ所村ラプソディーも見ればそうだが、それ以外の地域でも、全く語られてないのだが、端のジャーナリズムが多少拾っていると思う