選挙を話題にすることの是非

2019年7月の選挙。

投票率が48%だったとか、50%割れという。

なんでかなって思って、勝手に考えてるんだけど、 だいたい日常生活における優先度が低いんだろうと、なぜ低いのか、わかるわけがないのだが。
体感的な所では、興味の対象ではなくなってきてる、話題に登ることもなければ周囲の大人が話題にすることもなくなっていたからだと思う。 だから、選挙に関する躾や教育がなく習慣から排除されてきたので、これを習慣に戻すのは当分無理でしょう。 などと思いつつある。

卵が先か鶏が先か?

話題にならないから興味がない、興味がないから話題にもならない、 そもそも人々は選挙については語っても、その内容や候補者についてはあまり語らない。
それだけで記憶が薄れていくには十分だと思う。
少なくとも周りの人間が話しているのを聞いた覚えはないし、話すときは自分から話した時だけだった。

なぜ話題にされないのかについて1つの切り口。

 対立を招くから? 若人に関して言えばもともと全く興味がない人ばかりだった、それとも表面的にそれを装ってるのか...、 親は子と政治の話をしないものらしい。*1 対立を恐れるか、面倒ごとに関わりたくないか、全く関心がないか。 60年程度連続で1党が与党であり続けた事の思いも寄らない弊害なのかもしれない、「どうせ変わらない」的な。
 ともあれ、面倒な対立を招くから話さない、というパターンはあるよなと、 本来「お互い様」のハズでそれを忘れなければいいとは思うんだけど。 結局政治的対立があるケースだと支持政党以外を「否定」する話になる。
ここは面白い、そういう構造があるんだけど、その構造を理解しないとその自覚を持てないだろう。 自分が支持していることを優先するのが当たり前だと思ってしまって、政治家がそうであるようにその支持者も自己正当化をしてくる。 自己正当化をする時に最も簡単な方法が、相手を否定することでありましょうか。 そして、政治の話題ってなんだか知らないけど、妙にアイデンティティに結びついてるらしい、こういうのが妙に面白い、多分、やろうと思えば簡単に喧嘩できるのではないか。ディベートに持ち込んで溝を深めるのは簡単...。それはともかく、なぜアイデンティティと結びつくのか、満たされないアイデンティティの代わりに強い日本を描くことで代償にしているという分析があったな。日本の素晴らしさ優位性を説くということで、これが00年代中盤には出てきてたし、それ以前から国粋主義とかあったわけで、、、つまりセカイ系なんですよね。  そういう事を想像すれば、妙な対立を招かないように慎重に言葉を選んで、考えてやってるっていうのに、そりゃ考える時間は必要じゃん、そうしてやっても人々は誤解しあうものだから、もう踏んだり蹴ったりだって思ってる人もいるよね多分。
 そこでポリティカルコレクトレスですよ、お互いの主義主張を認め合うにはお互いが意見は一致できないという事を受け入れる事であり、無用な波風を避けるためには相手が支持しているものを貶すことはできないが、否定意見も表明しなければならないことは当然ある。 政治の場面が、センシティブでデリケートみたいなので、その上でいかに議論を深めるか発明されたとしたらポリティカルコレクトレスって有用かもしれないですよね。(?)

これから日常的な話題にしていけるのか?

でもどうせみんな利いた風なことしか言わないに決まってる。 なぜかって自分の生活優先の中で余分な情報を切り捨てたがってるから。 仕事の勉強した方が直接給料増に結びつくわかりやすさ。 目先の利益には全く繋がらない「教養」などは求められてないか、わかってる人に委託するのが簡単だ。 でもそれが評論家とか思想家が請け負ってそれはそれでいい協力関係なのかもしれない…。 役割分担が文明の発展を加速させるなら立憲君主制あたりに戻すか?

*1:もちろん全てではないだろうが