00年代の半ばから思ってた一部のどうでもいいこと。 テレビ放送のこと。

やしきたかじんみのもんた田原総一朗北野武と似たような司会進行で割と断言してくるタイプ、で支持された。
たかじんのそこまでいいっていいんかい(?)関西ローカル番組が東京や地方でも放送されるようになった、地元でも放送されていたのを一回は見た覚えがある。
構造的には、司会のたかじんさんの主張に引っ張られる、考えに合えば肯定され合わなければ否定される。割と断言されて
見るものが好きに解釈するものだとか言ってもいいんだけど、支持されたからこそ放送地域が広がったんでしょう。 確かにポピュリズムを煽っているのではある。

よくわからんのが、
ある個人が何かを断言するというのは普通にあることだが、 テレビでそれをやって支持を集める状況ってなんだろうかと思。
なぜなら世の中に絶対的に正しいと断言できることはないだろうと思えたため。
個人の意見というのは、その個人が持つ1つの見方だから、外から見れば別の見方が無数にある。 絶対的な正義や善というのもあるかもしれないが、世の中は基本的に物事が複雑に絡まって矛盾や不条理に覆われているものだろうと思う。
その中でこれが正しくてそれは間違ってるという断言はしないというか、違和感
違和感の正体、まず自分の好みでは、司会者には公平性を求めている。
善人でも悪人でもその意見を肯定も否定もしない。司会者は結論を出さない。
当事者たる見ている主権者たちが話し合って結論を出すまでに促すとかか、、、

だが権威者から断言されることによって人々は居心地の良さを感じているのではないか?
権威者の主張が自分の考えと合致していれば、自尊心やアイデンティティーが満たされるであろう。
具体的にこうすればこうなってこれこれこうこう良くなりますよって断言される事に安心する?
または、同じ性格である場合、あれも正しいこれも正しいとうだうだ言ってるのがダメっていう、何か1つ決めるという事が性に合うという性格で、且つ同じ思想であれば強烈に支持する。

もしも、そういうものが支持されて拡大した時代ならば、その時、人々は随分先の見通しが悪くて余裕がなくて疲れてるのかもしれないなって。 合議制って疲れるんだよね、他人の仕事にはケチつけたくなるんだよね、その割に自分を認めて欲しいんだよね、そりゃ疲れるわ。 人に宿るネガティブな思考、逆恨みとか妬みとか鬱屈した感情との付き合い方を確立する方法は、やはりフィクションから吸収することなんじゃないかな。 自分の外にある物語というのは、歴史も積み重なって同一の経験に他人がどう対処したか、感情というのがどういうものかを疑似体験、応用する
だから特に古典は良い、源氏物語までさかのぼっていい利用価値があるからこそ古典は生き残っていると考えている人もいた、それは少し納得。

それと自分がどういうものかという事を規定する必要もない