NHKについて

まぁ残しておかないと忘れるから書き出しておくのだ。

日本放送協会 - Wikipedia

昨今なにかと批判されているのが目立つNHKです。
ここではあの政党のことは関係ありません。 確かに最近は国営放送的な振る舞いが目立つ所があるかもしれません、公共放送としてそれは是正されるべきだとは思ってます。

僕は公共放送として、これまで社会に貢献してきたと考えているんだけど、そう思われてはいないのが大半らしい???、そんなことないよね?僕が見かけないか、わざわざ評価しないというだけで・・・。

しかし、ざっくり見渡してよく見かける意見はだいたい「受信料」の話題じゃないでしょうか、払うか、払わないかという。

そう問われたら払いたくないと言う人の心理は分かります。

だけど、本来そう言う問題じゃないと思うのだ。 記事を書く人も受信料について語られてる部分の比率が多すぎるんじゃないのかどうか見返してみて欲しいのだ。 それはバランスが悪いと思うから。

まず、何事も敬意を持って当たって欲しい所。

NHKが公共放送として設立されてこれまで、民間放送とは違うところで頑張って社会貢献してきた所があるのだ。

それが公共放送だからこそできた事があるわけだし、公共放送だからこそやらなければならない事があるわけなのだ。

そして、その存在の是非を問うに当たっては、本来であればその歴史を踏まえて、NHKの存在の「理念」についての是非が問われなければならないのではないのだ?

周りの若人話を聞いても何も考えてない、いや考えてはいるんだろうが、見てないから払いたくないだけみたいな感じだし。

料金に関しては確かに高いかもしれませんね、公共放送の存在意義と社会への貢献を考えたら安いかもしれませんね。高いか安いかは一概には言えない、これはこれで話し合いの余地があるんじゃないでしょうか。 その存在の意義と重みと国民とその未来にとって何がベストか、もっと話し合えばいいじゃん、それがなんで諸々すっ飛ばして極論に走っちゃうのよ・・・って感じはしてるのだ。 お値段に関してはちょっと安くして欲しいなって、学生の一人暮らしでも取られるとかはかなり恨まれるでしょうね。料金の取り方が公平か?という疑問があります。消費税も無くしてよ。

僕は好きだよNHK、好きだからNHKの肩を持つような偏りがある意見なのだろうと思われるのは勘違いも甚だしくて、 言いたいことは、物事の是非を語るときに枝葉ではなく幹にあたる話を理詰めでしていってよと願うばかりなのだ。

NHKなぜ好きかっていうのもあって、海外のドキュメンタリたくさん放送してくれたし、少数でも存在している層を、民間放送では絶対取り上げられない部分も取り上げて社会に一役買っている。 スポンサーの意向が輝く民間放送ではできない事を散々掘り下げてきたのはNHKなわけで、 個人的な理由でいらないって言う話をするのはちょっと軽すぎるよ。

しかしもしも今の時代ではそのインターネットがその代わりを担っていて、、、担ってないのはみんな分かってるじゃん。みんな公共より私利にいくから、、、

まぁそう言う時代の変化を見て、あり方を変えていくってことはあると思うよ、時代を経て役目を終えたと言う結論も出るかもしれないし、そうではなくて公共としてカバーしなければならない側面があるかもしれない。

NHKのおかげで本来得られなかった教養(教養というよりは雑学)も得られましたからね。 ニヤッキーとかデジスタとか、映像の世紀、歴史、さわやか3組わくわくさん、ゴロリ、埴輪、ノッポさん黒柳徹子、人形劇 三国志、戦争、アニクリ15、押井監督特番の際に 天使の卵 をHD放送できた大快挙。日本全国津々浦々で暮らしている人の姿とかも放送されてたよね、これだってダーツの旅でも捨てられるであろうリアルな姿があった。ニャンちゅう忍たま
夏休みのアニメ特番とか、マンガ夜話アニメ夜話は日本の文化コンテンツの普及を担ってるじゃないか!。
ラジオでは青春アドベンチャーとか面白いお話を流してくれてたもんね。
これらの事を他の民間放送局でも民営の映像配信でもできますか?っていうのは訴えたいですよねぇ...。

インターネット上に溢れる出来事について

まぁ残しておかないと忘れるから書き出しておくのだ。*1

インターネットのSNSを見ていて思う所。

たまに見かけるのが、 自分と同じ意見に集まって瞬間的に熱狂する。昔はイナゴという俗称が付けられてた。

それは「賛同して持ち上げる場合」も、「反対して突き落とす場合」も表裏一体で同じ行為なのだ。

目の前の出来事に反射的に飛びつく的な事で、それは人間の本能みたいなものだから無くせないんだろう。 *2, *3

独立した個人の集まりによって行われるようになってきた。

でも、この寄ってたかって持ち上げたり突き落としたりする事っていうのは、昔はマスコミュニケーションで行われていたんだよね。*4
新聞だとそう言うトーンは控えめだったよね、ゴシップ誌は別としてさ。

いやもちろんSNSの無かった昔でもコミュニティの中では日常的にあったんだろうけど、ただ、マスコミュニケーションを否定する人々が、否定している行為を何気なくやりつつその自覚を持っていない、と言うことがあるのではないだろうか?などと考えてしまったのだ。
もしそうだとすると、それは未熟に見える。
或いは、僕には見えないもっと別な切り口の観点があるのかもしれない。

そう、僕は昔からTVのワイドショーやニュースの一方的に見える語り口が嫌いで見るたびに嫌いで*5、嫌いなまま見てたんですけど。

やっぱり時代を経て今になっても、同じような現象を見て嫌だなぁと思うらしいと。*6

まぁなんか変な事を考えてるのかもしれないけど、僕はそういう人の事、考えや感覚が気になってて色々聞いてみたいのだ。


*1:はてなブログが永劫残るわけではないのだが

*2:それはポピュリズムとして利用されるんだけど、まぁ、はい、それは別な話

*3:飛びつきやすい人とそうでない人がいる。程度問題だとも言えますがその二者の温度差はかなりありそうですよね。

*4:特に昼のワイドショーでは。夜のニュースでもあったけど

*5:そりゃ正論はというのは現実とはかけ離れてるものですからね

*6:一貫した思想信条というよりも、己に宿っている思考パターンは変わらないのだ。変わらないならどうするか?活かせる場所、活かす方法を見つけるのだ。

開発 開拓?(例えばブロックチェーンと仮想通貨)

ブロックチェーンと仮想通貨と今より先の社会」

ヤング・ブルーウェル with アーレント によれば、 新しい技術を前に新しい概念、新しいルールを作っていかなければならないのである。 人間が持つ創造力を活かす事によってそれを成していかなければならない。

その時に過去を参照することには価値があるが、過去の事例をそのまま当てはめることは出来ない。 過去の慣習は過去の技術や価値観の体系によって形成されてきたものだから、それまであったものと出所や使い道の異なる新しい技術が台頭してきたときに過去の慣習を当てはめられる筈がない。

この状況をどんなメタファーで例えるべきか。それは一考の余地があるが、とりあえず。

今現在のブロックチェーンや仮想通貨の位置とは、飛行機が初めて登場した時代のような物で、それが実際に使い物になる代物かどうか分からず、貴族の趣味に収まってた程度のものだったわけだ。  状況は異なるが貴族ではなく、投資家の視点から考えられる何がしかの目論見による資本投下によって開発速度が速い。 飛行機は、戦争(WW1)で活躍する所を見せたが、その戦争を経た後で爆発的に普及とはならななかった、、、。
WW1の後は例えば航空郵便事業を普及させようとする動きもあったが、それはそれで大変だったようだし、 WW1を生き残った飛行機乗り達はアクロバット飛行のショーで稼ぐか航空郵便で稼ぐか、飛行機を降りるかと言う選択を迫られたらしい(実際のところは分からぬ)。そして、戦中ではなく戦後にパイロットの死亡率が上がった。戦争ではなく戦後の無茶なアクロバットが強要されるショーや航空郵便の事故で死んでいった、それは戦争より過酷な仕事だったと言えるわけだ。 飛行機というものが現代からは考えられ無いほど海のものとも山のものともつかずにいた時代って感じだね!!

その流れが変わったのが次の大戦(WW2)だったわけだ、あとはご存知の通りって事にして省こう。

そういう貴族の趣味にとどまり世間的には役に立た無いと人々に思われていた時代から、最初の大戦で活躍したけど戦争以外に使い道がないとなればその後の発展には至らなかった。2回目の大戦で飛躍的に発展していった事が大きな分かれ目だったのかもしれないが違うかもしれない。なにはともあれ、今飛行機は存分に使われている時代になった。戦争でも物流でも娯楽でも。そして社会のあり方も大きく変わったのでしょうね。

それらの状況が現在のブロックチェーンと仮想通貨が置かれた状況のメタファーになるかもしれない。
今のところ役立つものになるかもしれ無いがその保証はない。ただ先駆者らがそこに可能性を見出して遊んだり這い回ったりしている。仕込みに次ぐ仕込みの時代。ここから何かの芽が出てくるのかこないのか、運を掴んで時流に乗れるのかどうか。
技術の成熟とそれを受け入れる世間の情勢が揃うタイミングを待っているのだー。(技術が成熟してるだけでは社会に浸透しないのだ。)

ブロックチェーンと仮想通貨は既存の仕組みと違うことがあって 技術的にも原理的に解消できなさそうな欠点やランニングコストがある。 だから使われないということはなくて、それはそういう技術の形態に合わせたルールを人々が創造しながら使いこなして行けるかどうかにかかってると思うし、その恩恵は人々が自由に使えて平等に受けられるようにしなければならない。
だが人々にとって本当に必要なものかというと、実はそうでもないかもしれないという事も考えるべきかもしれない。他に上手いやり方もあるかもしれないのだから。 ブロックチェーンという技術そのものは面白そうなので、、、面白そうだからといって流行らせるものでもない、どこぞの大学の研究室で延々と研究されてその副産物が恩恵をもたらしてくれるという未来もなくはない。

新しく生まれた技術が、過去の事例に学んで大いに分析されて、間違いない方向へ研究が進み普及していく・・・ そして最初から役立つ物として構築されて出来上がってくれるならいいが、やはりそんなことはあり得ないのだ。 実際問題として未だに存在しない物を作り上げようとするには暗闇の中を進むしかないのだ。 五里霧中でミストウォーカーなのでミストウォーカーといえばテラバトルやろうぜ。 正解のわからない暗中模索、成功のサンプルも失敗のサンプルもない、明日をもしれない開発!(失敗例は既にたくさん出てるっぽいぞ!!!それでもまだ足りないって訳だな)

法律はグレーゾーンだらけかもしれないし?・・・。不味いと予想できる所は避けて歩くって本当にそんなやりかたしかできなさそうな気はする。だってダメかダメじゃないか決まってないし、それを誰がどう決めるかって言ったら人が決めるんだもーん。

仮想通貨・・・???

通貨というらしいが、既存の通貨ともなんとも異なる仕組みの物らしい。それを現実社会にどういう効果を及ぼすようになるのがベストなのか・・・。
とりあえず「中央集権であったもの民主化する」中央だの民主だのに関して直近で言えばメインはそのハイブリッドになるんだろうけれども。
というような話はそれは本質ではない気がする。本質は? 分からないさ。

そしてこの存在は世界情勢の影響をもろに受けるし与えもする。 国境を無視して動く通貨ってなんだよって感じだが、物理的な回線がなければ存在し得ないし、誰かがマイニングし続けなければならないし皆んなが保存し続けなければならない。 また、フィンテックやらとも結びついてきて、銀行設立に次ぐ金融革命的ななんかあるのかも? この存在によってまた世界が大きく分断されるかもしれない。 まずあり得ないと思うが、今は世代交代が進んでファッショが台頭してきて(揺り戻しが起きてるのか)それを考えると次の世代がどういう世界観を持って出てくるのか全く分からんので、分断もありえなくはないと思う。--(一帯一路構想も面白い事をやろうとしてる気はする。日本はもしもこれに対抗したいなら環太平洋経済圏でもぶち上げるのがよいと思う。対抗よりは協調調和を推進する事になると思う、ゲーム理論に従って成果を最大限にするなら。そこに仮想通貨を流通させて経済圏内の統一貨幣的なものになる)—

でもこれ一体誰がどう使おうとしているのか、わからんな、SUICAでいいよって感じだ。(無気力症候群) 現状この界隈の開発は同業他社でも皆んなでオープンですすめていこうっていう感じらしいのだが、要はVHS戦略を踏襲する流れがあるのかな、OSS戦略かな、そうはいっても独自に進める所もないとは言えないよね。 兎にも角にもまだ誰も成功してないけど資本は投下され続けてて、埋蔵金が埋まってる気がするんだよね。
逆に今世紀最大の経済事件に発展する可能性も秘めてるのかもしれない。

このブロックチェーンの仕組みを維持するのも、そこは慈善事業ではなくメリットがあればこそ、それを事業としてやろうということになる。 これが本当に自由に平等に使えるものになって、世の中の負担を減らして、明るい未来に繋がるのかっていうとそういうものでもないんだよね。 結局社会がどうあるべきかっていう思想が欠けていたら富の一極集中するのは変わらないわけだし、

我々が生きるのに必要な食料事情の方がなんだかんだ言って大事なのよねっていうか、それでいえば第一次産業に利益が還元されるようになる可能性もあるかもね。無いかもね。

新しいルールとは、、、

何が良くて何がダメなのか、という答えは原則の中にあると信じられる。 原理原則とは普遍のものであるから、迷ったらそこに立ち返る。ブレない標準器として使える。 進む指針を変動的な何かに依存することは最小限にして、良い原則を指針とすることで目的を見据えて進められるようにする。

ブロックチェーンを使ったゲームや何かが飛行機のように当たり前の存在になっている時代というのはどんな姿をしているのだろうか、そういう事を想像するのだが、すまん、俺はここまでだ!

仮想通貨以前にまず必要なのは食料の永続的な確保と物流革命でしょう。(それは同時並行でいいんだけど、現在の実態と新技術がマッチできる部分があるのかどうかってのもあるんだね。) 産業革命以前から、物の輸送こそが経済であったと言えないこともない。 データの移動がいくら進化しても実態が伴わなければ、ゲームをしているに過ぎないし、食えなくて人は死ぬ。 実態として社会の根元にあるのは物の移動ということになる。 評価経済社会とか、 その上部を支える食やエネルギーや製造のインフラは何も変わらないんだよな、そういう事を割と考えている。

エアコンの効いた綺麗なオフィスで働きながらゲームをしてるとか不公平だろうなってのは割りと思う。 人に誇るような仕事では無く自負だけがある。 それを解消するのは全ての職場を綺麗にする事でありやはり皆んな綺麗で明るくて清潔な職場でご安全に、 土木だってどこだって綺麗で快適にしていかなければならないというのが私の使命。 老後も綺麗な田舎で快適にご飯喰いたいので!

実際問題はなブロックチェーンゲームは面白そうなビジョンを見せてくれるのがまたつらいぜ!!!

余談

富める者が富を囲い込もうとしてるようにも見えなくない?

投げ銭に使いやすそうだし、 評価経済社会とは相性がいいのかもしれない。 でもガス代考えたら結局既存の金融機関の方がいいんじゃないか???

金融事業を個人の手に収めるという考えはあるか、収められる物では無い気がするな、リスクと向き合うんだから結局は組織的にやることになるでしょう。だったら既存の金融機関の方がノウハウあるじゃん。さらに規制も厳しいからカオスにはならないだろう。(たまにカオスな知能犯罪起きてるが、エンロンとかGSとかリーマン兄弟とか)
民衆はそれを理解して、実行できる法律を作る事になると思うが、まずはそれはそれでいいのかって話をしないといけないもんな。 この投票率でそれは無理だよな。

生きるとは喰うことと見つけたり

喰う、体に取り込むという事。
取り込む物、取り込む方法も様々、大半の方法は口で咀嚼してごっくんして取り込む事だが、時と場合によってはチューブで直接っていう事もあるし、点滴を受けてハイになったという話も聞いた事がある。

喰う事こそが人生の全てであり、喰う事ができなければ人生は無に等しい。
『アヴァロン』OPより。

export 「人生の真理」
おまけの人生は喰う事が全てだと悟ったのでござる。
だから「食べ事」を広めていきたいのだ。
本当は写真だけ並べて終わらせるつもりなのだ。*1

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本郷三丁目*2
学食も行ってきたんすが、それはNEVERまとめでも見やがれなのです。

一昨々日は
刀削麺」麦をこねた塊を刀で削っていく拉麺だ。

一昨日のことは忘れた
あれは確か〜昨日(yesterday)、まぁいい君たちにとっては明日(tomorrow)! 思い出した、パスタとサラダバーである。

昨日は学食
そこは、古めかしくも歴史ある荘厳な建物に囲まれていた。

今日喰らってきたのは、 「穆撒 蘭州牛肉拉麺」
(穆撒:「ムーサ」と読むらしい。) 微妙に不揃いな白い太麺に白湯スープに牛肉やらが乗っていた。 あと中国の「お箸」はなぜか太い! 味はそれを表現する語彙も何もないので割愛。

蘭州拉麺 - Wikipedia

清真料理 - Wikipedia

ふむふむ「清真料理」というの括りがあるのかなるほど!
お店の看板に見えた「Ḥarāl」の文字は伊達じゃなかったんだなと合点がいった。

今日食らってきたのは、 「ステーキ」
ステーキチェーン店のステーキ130gである!
もやしの上に130gの肉塊が乗っている。その他にコーンとポテトが申し訳程度に添えてある。 スープとライスが付いているのは、付いていてくれと願うばかりである。 *3 日本のどこにでもあるかのような普通のステーキである。

つづく

*1:なんていうかここに写真はりつけるのがめんどくさい問題が解決できないので、やりにくい。

*2:いずれは五反田、渋谷の分もまとめたい。

*3:僕がお会計へとトコトコ進んでしまったばっかりに、ジャーマネに奢ってもらえる筈だったのに有耶無耶になったこと、誰も何も言わないけど分かってます!みんなの期待を裏切ってしまって申し訳ないなと心に少し思っている。

風呂に入ってたら思いついた思いつき。

電話の取り方ツイートを見て(今日トレンドだったのだろうか???)、風呂に入って1つ思いついた。
 発達障害?というのを使えば、差別する事も語りやすくしている効能・側面があるからではないか、、、
なぜこんなに流行って、湧いているのか疑問なのだ、他にも色々考える事はあるのに、皆粘り強く語りたがっているのだ。
芸能人が開示したりするケースなどは「マーケティングの一環」としてはよくある話だが、そうやって浸透させていったんだろうな。
んで地味に湧きつづけている。20世紀の終わりから輸入されて、21世紀10年代のトレンドって感じだ。
 なぜ語られる続けるのか、根底にあるのは他人への興味だろうか、まぁわからんが。
 流行ってる一因は、あの欧米に端を発する一部医学会周辺のマーケティングのせいかとは思ったりもしたが、それも詮無い事だ。

それより、それがにわかに浸透するのはやはり 「分かりやすさと語りやすさ」 というのがあるんだなと思った。
これは、なかなか面白い思いつきだ。そりゃみんな語るようになるわい。

人は身の回りの現象を説明してくれる何かを求め続けている。

3.11の時もしかり、デマゴーグの仕組みにもに近い(あくまで話が伝播する仕組みとしての意味でね)。
血液型の時もそうだったんだよ。全然同じ感じだ(私が類似性に反応しやすい思考があるためこういう事を思いつくのかもしれない)。
これは個別化の才能を悪い方向に発揮されているために起きているのではないかと。
〜 とばし
人間という動物はとにかく比較する才能に長けている(動物がそうなのかもしれないが、人の特性としてアジャイルの本にはよく書いてある)。
それを語りたい、自分を取り巻く物事を語りたい、人から人へ物語るには比較テクニックを使うと分かりやすくなる。
〜 とばし
しかし社会は差別を許さない風潮がある。語りたいけどモヤモヤしている。(自意識との葛藤があるのかもな。)
そういう所に現れた救世主、黒船、としての発達障害という概念、新常識。

それの何がいいか?

とりあえず語れる! 他人のことでモヤモヤしたら取り敢えず語れる! 手当たり次第に人間のことを語っても怒られない! 合法ヘイト
そのためストレス発散効果もあるようだ。合法的に語りたいわけよ。
(デブが差別用語になった時代だぜ?)
人の考えは似たり、仲間が寄ってくるSNS効果でズドーン、ローカルに形成されますた。
そのあとは駄サイクルに入り火は消えない。

注意:それが全てだとは言っていない、発達障害だとの文脈で語られている人々の中にそういう側面があるように見えたのでそれはやめようという感じ。
そもそも人には誰しも比較する才能がある、ということは差別する才能があるという事なのだ。
他者と比べるのが大好き人間。豊かな他人をねたみ、他人の欠点を見つけては安堵する人が散見される。 そんな思考回路がない人と一緒になりたい。 だが、割と公平性ばかり考えている自分でさえ差別的な意識は芽生えるのだ、数十万年の歴史で培った人間の特性なのだ、だからメリットもあるはず。

ただ、誰しも悪い事を考える瞬間がある、それに気づいたのであれば、対処は簡単だ、芽生えたら打ち消す。表に出さない。 それを繰り返すだけ。
それだけで十分。

それを楽にこなすには、夢を振りまいていく他に面白い事を打ち出していく、展開される思考をコントロールするのだ。

ただ、自分の中にあるそれにまだ気づいていない人も当然いるなと。

自分の中には無いと思ってる人がいる、

思いつきで世界は進む (ちくま新書)

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前年12月:酔狂な話

消費税は是か非かという話が起きて、 お金持ちはそれが公平だと言う、貧乏人は不公平だと言う、その意見の対立は立場の違いから起きているのだと言われる人がいる。

「人の意見には立場に依存している場合がある。」という考え方は間違いではないと思う。私も同意できる。

しかし、上の事についてはそこで発想が止まっているのではないかとも思う。

例えば、 歴史において奴隷制度は肯定されていたが今は否定されている。穢多非人なども否定される。 もしそれがあったとすると、そこには支配する側の意見と支配される側の意見がある事になる。 (これは強い立場と弱い立場を端的に表している。) 支配側は奴隷制度を肯定して、被支配側は奴隷制度を否定している。 その時、考え方は立場によって違うからとしてしまうと、力の行き場がなくなってしまう気がする。

だが、現代の人々は奴隷制度を否定する、その根拠は歴史的経緯になるのだろうか、自由平等の理念を正義として掲げている。

政治の場では我々の社会のためになる事を論じられている。 今現在であれば基本的人権と自由と平等の理念のもとに何が社会にとって正義たり得るかと言う事が論じられる。 そこで、如何に効率的で合理的なアイデアがあったとしても、自由と平等に反するアイデアであれば人々はそれを容認しないだろう。 奴隷制度も否定するだろう。 (形を変えてそれを容認する流れがあるのも無視はできないのかもしれない?それは、また別の話。)

人々が社会のために考えて出したい答えは、 今と未来の人々のためにどうしたら良いかであって、

だから我々は共通の理念である自由平等のもとに、その立場を超えて、より良い現実的な答えを出そうとしているのではないか 立場によって意見が違うことはあるけど、それは別軸の話であると思う。 立場にとらわれない答えを出すために話しあいたい。

僕がそういうことを考えているから、上の事について「それは立場によって意見が違うだけなんだよ」とそういう言われ方をしてしまうと首肯は出来ない。

人はなぜ、自分と違う物事に対して上から目線になるのか。 他人を見る時に、他人がやらない事とできない事を混同している人が多いのではないかとは思う。 または、言い方がそうなってしまうだけと言う事も大いにある。熱くなるとそう言う配慮ができなくなる場合もあるからね。

なんつってな


PS. 無関心になれるのは利己的なのか自由至上主義的すぎるのかなとかなんとなく思ったけど、なんとも

みかんを食べていたら思い出した事。(歌うたおう)

『みかんの歌』

1つ、 2つはいいけれど

3つみかんを食べ過ぎて

4つ夜中に腹壊し

5つ痛くてたまらない

6つ無理やり注射して

7つなかなか治らない

8つやっぱり治らない

9つ今夜が峠です

10でとうとう死んじゃった


懐かしさがこみ上げてくるね

みかん3つで死んでしまうとは情けない。

だがしかし、お腹を壊してからでは遅いので

みかんを食べ過ぎないように気をつけよう!*1

ネットを検索してみると割とバリエーションがあったので驚きね

*1:これには1日9個までならギリギリ死なないっていう解釈があってな。