毎日同じ事の繰り返しかよ

毎日同じことの繰り返しだが、それは尊敬すべきことと思う。互いに恩恵を与えて受けている。 以前は、何となくだけど、同じような毎日になるのが嫌だなと思っていた。 死出への旅路を整えるように年追いながら、自分のいろんな感覚が僅かづつ変化してきている。

街では、気まぐれで入ったカフェでもコーヒーが飲める。 その時そのコーヒーが飲めるのは、そこで毎日毎年同じ事を繰り返しているから、縁が結びつくというわけだ。 コーヒーの実がどこかで出来てそこに運ばれていて淹れてくれるということが毎年繰り返されている。

一年に一回か二回しかこない客のために店は開いていない。ある意味では日々違った顔ぶれが並んでいることだろう。 10年に一回かもしれない、 一生に一度かもしれないけど、 誰かがそれを必要とするその時に、そこに有る。 という事の背景は、僕がなんとなく嫌だと思っていた同じことを繰り返している日々があればこそだったりする。

毎日同じことが繰り返されてるからこそ、その一回の体験がある。 単純な作業、単調な繰り返し、だとしても。 同じ事を繰り返してくれてる人がいるから、その一瞬に価値を受け取ることができる。 そのことに感謝をしつつ、尊敬と対価を支払っていく。

ただ、そうと分かっていても、 街中でも、工場でも毎日繰り返されているような所に入るのはなんとなく嫌だった。

自分の場合 毎日同じことを繰り返す事を想像しては、何となく嫌だなと思ってたけど。 同じ道を大体同じ時間に移動している事とか。 仕事の内容は、いつも微妙に違うことをやってるようでも俯瞰してみると大差がないように見える。

考えても詮無いことだ。 今僕がサラリーマンをやっていて、同じ日々を繰り返してることで、誰かにいつかどこかで価値を提供する事が出来ていて、お礼や対価を受け取っている。 そういう個人が、同時に億単位で無数に存在していて、それが協調して働いて一つの世界を構成しているというのは芸術のようですらあるんじゃないかといってみたりするのも面白いじゃないか。 その個人共は大きな機械を動かす一つのピースであり、調整に狂いがあれば調整され、修正不可能に壊れたら交換され・・・ いや、そういうことじゃなくて、 毎日同じで嫌んなるけど、そんな考えてることもまた同じくらい嫌んなる無駄っぽい。

まずはやる。 とりあえず、ここにいる限りにおいては、 例えまずい食事でも食べなければ生きていけぬのだから、まずは食べる。 それと同じように、口では嫌だなんだと言ってはいても、ただやるだけのことであった。 それが惰性でも問題ない、惰性だと自覚しているから。 今は生きる動機がないもんね。

ただ自分の場合だと稼ぎは同年代と比べて少ないにせよ、割と恵まれた状況に至った感じではある。(いつまで続くかわからないとしても) 望んだ仕事とも言えないが、一念発起して目指した業界の片隅には入り込んでいる。 今ここに至るまで相当寄り道をしたとはいえども、その事実を考えてみると自分というのは、結果的にではあるがよく初志貫徹したものだと… よくやったものだと、今書きながら思い出して、思った。 確かに、他の方面に行けばもっと稼いでいたんだろうが、モラトリアムし続けた経過も踏まえた結果にしては我ながら凄いな。先祖の血筋にも感謝しておこう。高校時代に両親の理解を得る努力を怠ったのは不味かった。家族は大事にしたほうがいい。 社会の緩々さに甘んじてしまった感もあるが今更どうでもいいのだ。

自分への責任には興味がなかったから責任を持たねばならない他人がいれば違ったかもしれない。自分が生きる動機は自分にはなくて他人にあったかもしれない。

話が逸れたから閑話休題なのである。

こないだ、知り合った人が言っていた。 「同じ毎日の繰り返しが嫌だなー。毎日学校に行って、そういう毎日同じことの繰り返しで、この後どこかに就職してもやっぱり繰り返しでしょ?、そいうの嫌だな。人生つまらんー。」 こんな感じのことだった気がするが。

その繰り返しはつまらんように見えるけど、そんな悲観しないでいいのさと伝えたかった。 でも、他人の言葉はきっと届かない。それに、感傷に浸る時間も良いものだと思う。 ただ、誰かの話を思い出して腑に落ちる日が来るがしれない、それだけで話すことに意味はあるとも。  結局どう言ったらいいのか分からなかった。共感したけど、昔の自分を省みての事だしな。 もっとも、そう話していても割と楽しそうなんで瑣末な事だった。

裏を返せば、自分の不安の表れであったりするだけの事で、結局のところ個々人は勝手に何かをやりながら場を獲得していくんだろうな。僕でさえそうであったように。 全ての人がやりたいことだけやってる世界はきっとカオスだ。公共の福祉さんがいい働きをしてるのかなと思う。 そこでプチクリのような概念が生まれて来たのは、やりたい事もシェアするような時代感覚なのかもしれない。

余談

あと、 帰省したら、農家はなり手がいないだのと、確かに周辺若い衆いるけど少なそう、都会に出て行ってる。 畑では野菜を作ってる幾分余ってくると腐らせてしまうとか、売ったらどうかと進めても無理だと言う。 売れるもんでもなければ、もっとあくせく労働しないと売れるものはできないとか、、 余ったものを売ったらという意味では売り物になる品質ではないというが、品質に見合った値段で売れないものだろうかとも思う。 まぁ無理だろうなと思いつつ、ちょっと何かをずらせば繋がりそうな気がしててならない。多分他の誰かが商機を見出してくる。 食料は大事だ。人間は不味くても食べないと活動できなくなる。 社会を支えているのは一次産業だが、それのなり手がいないまま家は潰れていくだろう、誰も戻ってこないから。 そこから読み取ると、 都市労働と一次産業を比べた時、一次産業は尊敬されていないんだなと思う。

そう言う自分もどうかとは思うが、プー太郎をしてる時から実家の畑を耕すのも悪く無いと思っていた。でもそうはならなかった。そっちに行ったらやりたい事できないなと思った。

それはでも間違ってる、畑耕しても旅行したり、カフェで微睡んだり、インスタ映えするランチをアップする、オシャンティなオフィスで作業する。 暴論だが、社会は一次産業を軽んじて来たと思う。(なんとも言えないが)

実際儲かってるところは儲かってるので良いのだが、 過疎化した事空洞化した事、 将来パートナーが出来たとして実家に戻りたいと言ったら断られそうな事とか考えると、そうじゃ無いんだけどなぁって1人で勝手に考えてる。 IT系って妙にプライド高すぎない?よく目について記憶に止まるのがそれってのはそういうのが表出されやすいってだけ? 内側にいるからそう見えるだけか?(身内同士でいると外側に対する文句が出てくるみたいなやつ)

SFみたいに完全オートメーションで食料生産される時代になるのならそれはそれで良いけど、実際問題当分は無さそうな気がするし。 飢饉で死ぬのが酷いなと思う。空腹で飢える時の苦しさを想像する。1日仕事が終わる頃になるとお腹が減ってる時のイライラ度は凄い、些細なことでも怒りっぽくなってしまう(怒らないけど)。

そんなんだから人々が飢餓状態に晒されるのはやばいと思う、その時の社会の荒廃ぶりが想像に容易。 だからこの先もずっと今の日本の食生活が続くように自活できるようにな方向に進んで欲しいと、 思うだけは思う。

人が社会の歯車のように見える側面があるとしたら、 社会に属する以上は平等に歯車になるという事かもしれない。 それはそう言うものの見方として示しているにすぎないので捉え方を間違ってはいけない。

社会で等しく働いているならば賃金も等しくすれば良いんじゃ無いか? モチベが下がる?イノベーションが起こらない? イノベーションを起こしたらボーナスを出したら良いんじゃ無いか? 研究は何がいつどこで役立つかわからない、リターンは大きいかも

外国の農地買収の動きとかあったらしいが、やっぱ人は不安に突き動かされんだね。どこの人も同じで。

人の上に立とうとする人は、社会を動かそうとする人は、 人を見た時にどんな人でも良い所を見つけられる人であって欲しい。

*1
*2

*1:人それぞれ繰り返せることと繰り返せないことがある。向き不向きが人それぞれの才能によって異なる。

*2:ここでいう繰り返しは人間社会に纏わることでITでも同じさね。