2017/08/14 NHKスペシャル 樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇

録画されてあった NHKスペシャル を見ながらメモ。

面白い話ではない。

ほとんど顧みられて来なかった。 日本軍は戦い続けて、ソ連は攻めてきて、一体何があったのだろうか。 戦う意味はあったのか?

住民は前線に送られた、竹槍を持たされてと証言する人あり。

8月9日ソ連が日本へ宣戦布告。中立条約を破棄して。 その時に南樺太国境付近で先頭の発生。

それが、終戦後も続いた。

8月16日重大な出来事:降伏を受け入れたはずの日本軍が先制攻撃。 恵須取で日本軍が先制攻撃をした。 オオツキさん  砂浜に上がってきたソ連兵に戦いの様子は見られなかった。  鼻歌交じりでやってきたソ連兵を海岸で攻撃する。 機銃で応戦されて退避。  この時エストルでは終戦を知らされていなかった。  停電していて玉音放送を聞こえなかった、現地部隊上層部は終戦の事実を隠していた。 何も知らされず戦いを続けさせられたことへの憤り。

陸軍第88師団(樺太師団)に不可解な命令、 終戦後にもかかわらず「樺太を死守せよ」と 参謀長鈴木大佐 武装解除の準備を進めていた。  泣いて終戦命令を下し、各隊が涙とともに実行中の16日午後、軍命令が届いた、今頃何事ぞと怪しみ考えて見たが合点がいかない、電話で作戦主任に尋ねる。はっきりした回答は得られない。

大本営から札幌第五方面軍には即時先頭行動を停止すべしと伝えていた。 札幌の方面軍は 樺太には樺太を死守せよと命令していた。 札幌方面軍司令官 樋口季一郎中将 戦後回想:私自身はソ連がさらに進んで北海道本島を信仰することがないかという問題に当面した。ソ連の行動如何によっては自衛行動が必要になろう。

ヤルタ会談でのソ連の狙いを説明。 北海道北部の染料も密かに求めていたスターリン

しかしそもそも樺太にはソ連に対抗兵力はない、自明でありながら死守命令 支援もなし。 終戦の翌日に突きつけられた。

住民も巻き込み、戦線に立たせられていたという。ロシアの資料館に保存されていたもの。 「国民義勇戦闘隊」という計画 在樺太の全日本人を兵員として第一線に使用せんと企図。 戦闘用具は槍!手榴弾、毒矢、玉砕(全員戦死)まで遊撃戦を行わんとする。  住民をどう戦わせるのか、  軍は沖縄戦を念頭に  沖縄戦は、住民を軍に協力させ本土決戦までの時間を稼いだ作戦的勝利として高く評価して、、、 全国に国民義勇戦闘隊を組織して・・・それが唯一実行された樺太

証言 全員待ちの人、 招集して竹槍 各家庭にあった竹槍、 普段着のままなんの訓練もなしに投入され、武器は熊撃ち用の銃 ソ連は機銃っぽい 海には遺体が浮かんでいた、

仮説:ソ連人の日本人に対する見方にも影響しているのではないか?

遊撃戦効果ほとんどないという記録、いたずらに死傷重ねたる、と。 生き延びたカナザワさん、敵の攻撃を避けながら山道へ、 うつぶせで寝てるような格好で死んでいる住民らの姿を目撃。 8月17日戦火を逃れる逃避行 南北450キロの南樺太これを南下中、引き上げ船が出る場所を目指して。大泊、真岡 それもソビエト軍戦闘機の標的になった。

証言 疲れて動けない子供、不幸ながら、子供を捨てる親、連れて歩けない、 崖に落とす。

3歳4歳子供、言っても歩けるはずがない、手榴弾集まって自殺。 缶詰5人6人で食べての自決。 (沖縄戦の映画で見たことあるようなシーン)

スターリン、北海道を占領の狙いはあったが、トルーマンは北海道もマッカーサーに委ねられるものとしてそれを拒否。

米ソの動きは知るはずもない樺太師団 北海道防波堤の樺太死守の命令を守り戦闘を継続。

8月20日 樺太最大の上陸作戦、真岡 真岡には引き揚げ船に乗るため避難民が集まっていた。 早朝から その時に記録された映像がモスクワの資料館で見つけられた。 10隻以上のロシア軍艦が艦砲射撃をしている。

証言: 真岡の向こうから隣の駅まで見渡せるくらい焼け野原

この日交渉あり 樺太参謀長 鈴木大佐 同席した通訳の記録: 住民の犠牲増えるなか、内心では停戦を望んでいた鈴木、 「戦争は終わった、互いに戦闘行為を中止し停戦協定を結び避難民を南下させる。」 「日本は無条件降伏したのだから武装解除し捕虜として投稿せよ。」 鈴木の内情:住民の犠牲を懸念していても樺太死守の命令に縛られる。 「もし南下するならば日本軍と遭遇戦になる ソ連側が進駐を見合わせるのが最上の策ではないか。」 「我々は進駐を続ける。(ソ連激おこ)」 三時間の交渉は決裂。

真岡3500人のソ連兵が上陸。 住民の集団自決が相次ぐ。 フジヤさん(90)証言 ある家族の集団自決の現場を目撃。 父親軍刀で自殺、妻と子供達の遺体が傍にある。 ソ連に殺されるならどっちでも同じだと思ったんだと思いますよ、 でもなんでもいいから家族全員で逃げて欲しかったと思います。

捕虜になってはいけないという日本軍の精神、

これらが「終戦後」に起きている。

樺太師団の動き 真岡後ろにある熊笹峠に展開 真岡住民のためには動かなかった 軍は豊原への侵攻を防ぐための展開だった。

クマガイさん(96)元軍曹 熊笹峠で阻止せよという命令 樺太軍中央部は師団司令部は豊原だから、 (師団が)軍事力で真岡を防衛しようとは全然考えてなかった。

アレクセイ:上陸した元ソ連兵の生前の証言、メダルたくさん。 ある兵士は家に火をつけた、ある兵士は女性を強姦した、自動小銃を突きつけ手など 殺された母親に子供がすがりついて泣いている光景。話すと辛い。思い出すと涙。

マツシタさん(85) その姉澤田キミ当時(19) 姉とは、映画連れて行ってもらったり、みつまめ、洋裁もしていたので服を縫ってもらった、すごくいい思い出しかない 仕事は電話交換手だった姉 軍の仕事にも関わる命より大切な仕事と言われている。家族と引き上げ船には乗らず。 大事な職場だけに自分は残るということだったとは思う。港で手を振っていてくれたそれが最後だった。

ソ連兵上陸その状況を伝え続けた。

栗田さん 真岡からの連絡を受けた。(ロスケって言ってる) 爆撃時、上陸してくるのが見える、などの報告。 「ロスケが見えます、これでさよなら」など聞こえてくる。

ゾッとする呻き声とかが聞こえて、、、 真岡の電話交換手、9人の女性、職場で用意されていた自決用の青酸カリを飲んで死んだ。

松下さんの姉に預けられた着物、結婚が決まっていたからそのための着物。まだちゃんと大事に残されている。

8月22日 停戦成立。 札幌方面軍、大本営の指示を受けて、樺太へ「直ちに停戦せよ」と命令。 そして武装解除した樺太師団。 ソ連の撮影した映像に鈴木大佐の姿。

鈴木公開の言葉 「自分の任務遂行は果たしてあれでよかったか結果は明瞭にノーである。」 鈴木は12年間シベリアで抑留生活。帰国。 住民はおよそ2年間ソ連占領下のサハリンに留め置かれ、家族財産を失い帰国後も苦難の生活。

保坂さんノンフィクション作家証言 日本の酷いのは、責任所在は今も曖昧なままだと 一番下の人が責任感を感じている。 でも、命令を出した人、それを受けてさらに具体的行動を支持した人 この辺の人らの責任が日本は欠けている。 そこまでして戦わされた国民義勇兵、本土決戦とはなんなのか。 資料をもとに責任のありかとか、やらなきゃいけなかった。 この史実資料から何を残すのかとか。

松下さん 樺太の姉と別れた港へ赴いたときの映像。姉への心境。

樺太戦、沖縄と違ってこれまで殆ど顧りみられていない。

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組織の問題について、どうなのか、 札幌方面軍は勝手な命令を出していたという事なのか、戦って死んでるのは現場の人間で、、 札幌方面軍司令、樋口中将の責任とか、酷いんじゃないかと思うんだけど実際どうかということに、裁判などになっていないのであれば、なんとも言えないのだろうか。